"西村清和『プラスチックの木でなにが悪いのか』:だらしない印象論と詰めの甘い議論によるトートロジーしかない本"

http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120120
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120121/1327143576
クオリアな話? 
ウンコ味のカレーと、カレー味のウンコの譬えが出たが、これ、日常においてクオリア的なものが登場するのって、清潔不潔問題が一番典型的じゃなかろうか。
清潔な便器*1の(日本の水道水レベルの)水と、キレイなコップに入っているけど雑菌や不純物入りまくりの水、どっちを選ぶか、みたいな。
「高級なカニカマと、雑な(本物の)カニ、どっちを選ぶ?」なら、サラダ用なら前者かなあ。
「本革と人工皮革、どっちがいい?」自動車の内装においては、競技用車をイメージさせるアルカンターラが珍重される局面もあるか。
自然物と人工物の差を、物性的な差異に求めるのか、それが縮まった後でもクオリアに求めるのか、まあ。

*1:実使用歴無しの新品で洗浄滅菌済みとしておこうか

"ゲーセンで出会った不思議な子の話"関連

ゲーセンで出会った不思議な子の話:哲学ニュースnwk

http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4077578.html

ゲーセンとかけそばと泣ける話とゲラゲラ笑う人達

http://d.hatena.ne.jp/Lobotomy/20120121/p1

実話として流通する嘘に大喜びする愚民

 承認欲求は誰だって欲しいから、作り話作るのは良いよ。発表するのも良いよ。
 しかし、創作を事実だというのは、ダサいでしょうに。
 それを喜ぶのはもっとダサいでしょうに。

http://dochikushow.blog3.fc2.com/blog-entry-2176.html

「ゲーセンで不思議な子に出会う話」は物語というよりむしろ>>1のセルフカウンセリング

http://togetter.com/li/244071



その他。
いろいろ眺めていくと、
「"感動体験"は、割りとチープな物語でも発生する。ので、"感動"を過度に価値化*1してはいかん」
あたりに落ち着くのかな。
これを逆算すると、
「他人が感動した物語をチープと笑っていた人が自分の感動を笑われた時、チープさを取り繕うために「物語」をリアルだと取り繕う」
となるのかもしれん。


もちっというと、「感動」は「物語」と「自己」との相互作用なんで、「感動」を喧伝することは脆弱性の公表に他ならない。だからといって、常に冷笑的な態度を取ると↑に陥る可能性がありそうではある。嘘言でもいいいから、「クラッシックの名曲に感動した」「見名作映画に感動した」「ルネサンス印象派絵画に感動した」と言っておくと、脆弱性のカバーにいいのかなとおもた。

*1:一般化したり、他人に感動を押し付けたり、感動から逆算して登場人物やその行為を称揚したり、作戦の失敗を感動なエピソードで隠蔽したり

社会構造

社会構造は、権力者(≒抑圧者) vs 民衆(≒被抑圧者) と単純化され、少数の権力者の富と権力を、多数の民衆に移転して、よりよい社会を作ろう、となる。
ところがところが、実態として、企業やら国家やらの手先として、「抑圧」に協力し、給料を受け取ったり、既得権益の隅っこに位置して生活してる人が少なくない。


「社会の富は、全て民衆に分配すべき」という革命思想で、じゃあ増税な、となると、富裕層なら2年毎に乗り換えていたベンツを3年に一回にするとか、ファーストクラスの旅行をビジネスクラスに落とすとか、そんな程度で済むかもしれないが、下級官吏(日本だと上級もか)や下級ホワイトカラーだと、ミニバンが軽バンになってしまう。かといって、レッセ・フェール、グローバリズム、なんてなると、資本家はそういう人の首を切って、上級マネージャーと海外拠点で仕事を進めてしまうだろう(そして、莫大な富の一部を超貧困層に寄付して喝采を浴びるかもしれない)。


そんなわけでまあ、没落しつつある中流は、ファシズムに走るよなあ、と、いくつかのエントリーを見ていて思ったのだった。