サボテンに水、鴨にシャンプー、現代っ子に拳骨

 宮崎県の東国原英夫知事は18日、子どもの教育に関連し「(体罰が問題視されない)げんこつ条例というものが宮崎県ではできないか」と述べ、一定の体罰は認められるべきだとの考えを示した。県庁で記者団の質問に答えた。

http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20080618-373550.html

 自分が子供の頃は、もちろん体罰反対派だった。
 で、殴られる心配が無い頃になると、「殴って訴えられる教師」の話を聞くと、なんだかなと思ったりする。


 さて、最近の標語は「育てたいようには育たない。育てたように育つ」というもの。
 体罰は、実行するほうが、どんな心算で殴るか、ではなくて、殴られたほうが、どんな状況で殴られたか、によって教育効果が左右されると思うのだ。
 子どもが、教師を信頼し、家族を信頼し、学校を信頼し、「教師が自分を信頼していると信じている」状況であれば、教育にプラスになるかもしれない。ただ、現代の子どもは、周囲を信頼していない。もしくは、「周囲が自分を信頼している」と信じていない。妄想だけどね。


 うん。たとえ愛のムチでも、子どもが愛を実感できる状況を確認した上で鞭打たなければ、タダのムチ。


ちょっと追記

 俺は、○○のラーメンが好きだった。ラグビー部にいた頃、良く食って試合に勝った。お前も食え。
 と、トンコツ大盛りモヤシ山盛りのラーメンを、少食の女の子に出しても、残されるだけだと思う。
 逆に、××の蕎麦は最高だ。この香りは素晴らしい。
 と、手打ち蕎麦を2、3枚だけ、ラグビーの練習帰りの大学生にだしたら、
 「手打ち蕎麦喰う金があったら、トンコツラーメン食いてぇ」となるかも。


んー、うまく書けない。

 獅子は、千尋の谷に我が子を突き落とすという。
 だけど、昔は、谷底に、家族や地域社会というクッションがあって、落っことされてもクッションで受け止められ、メディック、じゃなくて周囲がサポートするという状態だった(とは限らないだろうけど)。
 昔うまく行っていた、とか、自分は上手くいった、と、落っことすところだけ真似すると、谷底で首の骨を折ったり、足を折って動けないところでそのまま放置されちゃったりしかねない。その辺が問題だと思っている。

"人に教えるときの常識"

http://d.hatena.ne.jp/tek_koc/20080618/1213745554



 あるトピックを説明するとき、その原理や、周辺知識との位置づけ、という観点は結構重要だったりする。
 単に、項目の丸暗記じゃなくてね。
 光ファイバーの場合、シングルモードとマルチモードの差異を説明する場合、ファイバーの構造、つまり屈折率の違いに踏み込まざるをえない*1。ケーブル内を反射して進む、ということを知らないというのは、構造を知らないわけで、説明の際はかなり巻き戻す必要があるかもしれない。


 で、それが良いとか悪いというのではなくて、普通の消費者にとって、「光=(ちょっと高いけど)速い」という認識で充分だと思うし、「長距離高速伝送すんので、シングルモードの電線使うんで、ケーブルと工事費高くつきます」で充分かもしれない。
 




 なんか飽きてきた。




 「メンマが食べたい」と言う場合は、たいてい、小皿にのったメンマではなくて、ラーメンに乗ったメンマを想像している。
 「(トンコツラーメンに乗った)メンマだけ食べたい」という友達に、
 言葉どおり、桃屋のメンマを出すか、
 トンコツラーメンを作り、乗ったメンマだけを食べてもらうか、
 トンコツラーメンを作り、メンマ喰うなら麺食ってスープ飲め、と無理やり食わせるか、
 友情の問題かなぁ。

追記

 ちいさな器に、一口分の麺とスープを入れ、そこにメンマを乗っけて出すのが味見にはサイコー。それをつくってあげるかどうかは、友情の問題かなあ。経営者wだかベンチャー起業家wwだかが、「味見してやるから一口サイズにしてもってこい」「うるさいうるさいうるさい。喰うなら一冊一杯喰え」「取引先に、トンコツと醤油とミソスープで一口ラーメンつくって、そこにメンマ乗っけて、試食くらいさせないようだと、受注されないぞ」「なにおう。俺はあんたの下請けじゃない」というやり取りを、先日見たような気がする。