半島の地政学

http://white.niu.ne.jp/Freetalk/0602a.html#012052a

_米中間での有事の際に衝突点となるであろう東アジアにおいて近隣国がどんな態度を取るかと想定しますと、

  • 日本
    • 鉄板で米国サイド
  • _北朝鮮
    • 鉄板で中国サイド
  • _台湾
    • 情勢にもよるが多分米国サイド
  • _ロシア
    • いちおう中国寄りだろうが基本的には日和見でおいしいとこ取り狙い
  • _韓国
    • 勝ってる方の味方

 うわ、分かりやすくて面白い。人種とか文化とか、不確定的なものでなくて、地理的条件が与える影響。

ということで仮想敵国扱いしても文句を言ってこない日本を仮想敵国扱いして国威発揚かつ米中双方の脅威から目を背けてる、ってなところなんじゃないかと思います。

 これは分かりやすい。南北融和なんて、損としか思えなかったのだが、そんな感じなのね。


 どっかで見た、大陸の中心→半島→島、という文化の流れに対する中継地たる半島の複雑な感情、という論もおもしろかった。

「フルメタル・パニック!」における二つのリアリティー

http://d.hatena.ne.jp/giolum/20060205#1139117086

フルメタル・パニック!」の場合、ミスリル編はリアリティーがあります。かなり真剣に作り込んでいます。登場人物は銃で撃たれれば傷つき、生死をさまようキャラクターなのです。ところが陣高編にはリアリティーはほとんどありません。むしろ積極的に壊しています。ミスリル編と同じ登場人物が爆発に巻き込まれても記号としての絆創膏が付くだけです。ここでは登場人物はキャラなのです。つまり「フルメタル・パニック!」という一つの作品の中で

* キャラクター⇔キャラ
* リアリティー⇔ノンリアリティー

という可逆な切り替えがあるのです。

 エントリーの趣旨は理解できるのだけど、個人的には、リアリティーとノンリアリティー排中律付二元論のように解釈されかねないあたりがちょっと気になったり。
 さて、普通、一つの作品は、一つのリアリティー水準で記述されるっぽいのだが、作品の途中で、限定的にリアリティーを低下させる場合もある。古くは100tハンマー、SDキャラ、エロゲでもヨダ絵やぺろ絵やSD絵を登場させる場合があるし。TID的に言えば、キャラクターからキャラが見え隠れする瞬間。で、絵によってリアリティーの水準を表現できないラノベの場合、長編でリアリティーを高めにし、短編で低めにするという、いわばセルフ二次創作が受け入れられたのがスレイヤーズから、という指摘。
 リアリティーの水準が上がっていった作品として、明日のジョーが紹介されていたが(TID)、リアリティーの水準が変化する作品のなかで、多くの作品はキャラクターとして開始され、巻が進むとともにキャラ化していく。二つの水準を並列させているあのへんは、だから考えてみると凄いのかも。

"大学は何をするところだっけ?"

http://blog.livedoor.jp/yahata127/archives/28460290.html

大学は「この学生は確かに、うちの教育を修めた優秀な学生である」ことを認定するためにお金をとるべきです。売りものは、卒業しましたという認定であり、それを保証するために、必修単位を認定しているわけです。
ですので、個別の売り物は「単位」になります。けっして、その段階に達するまでの手とり足とりな教育ではありません。
その証拠に大学教員は、教員免許もなければ、教育実習も受けていません。
教員が研究する姿を見せ、その一端を紹介し、あとは学生が這いずり登ってくればいいのです。

 なんか、コメント欄での紛争が面白い。
 要するに、現場での見解(学生の面倒なんて面倒でやってらんね)と、親やら学生の見解と、運営当局の方針にミスマッチがありそうだ。大学説明の2ページ目の見開きに、「あとは学生が這いずり登ってくればいいのです」と、48ptくらいの文字で書いておけば、こういうミスマッチは避けられるのに。