人に要求すること、社会に要求すること

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080217/1203232663


 ある結果が生じるには、沢山のプロセスがあって、その一つのイベントを、「結果の責任たる要因」として恣意的にとりあげる際には、注意が必要だと思う。


 そのへんの問題は、「刺激のレベル」と「感受性」のバランスであり、どこを原点とするかは、論理とか論理とか論理じゃなくて、単なる社会合意によるレベル設定な気はする。昔は、煙草の煙は「社会」で許容されており、それを許容できない人間は「過敏」であり、不許容な人間の責任とされた。今では、一部を除いて煙を出す側の責任とされている。ディーゼル排気ガスなんかも同様。心頭を滅却すれば火もまた涼し派もいるけどね。電車内の電磁波、騒音、化粧、香水、などなど。