"伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を読む(4)"

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/4_a77d.html

 キティなどの商品先行型キャラやモナー等のAA、ケムンパスやヒョウタンツギなどの「落書きキャラ」は、その成り立ちにおいて物語を前提としていない。キティのアニメ映画や、2ちゃんのAA板などにはモナーを使った連続ストーリー作品までもがあるが、そこでの「物語」はあくまで「後付け」のものだ。キティやモナーは、はじめに「キャラ図像」ありきなのである。

 そして、こうした「キャラ」に「物語」が与えられると、それは「キャラクター」になるというのが伊藤の考えだ。その意味では、「キャラクター」も本質部分はあくまで「キャラ」なのだが、それが「キャラクター」になったとたんに、本質である「キャラ」の部分が見えなくなる(隠蔽が働く)というのが、伊藤の論旨である。これについては、後でより詳しく紹介する。

 ここで伊藤が明確に両者を定義しているので、引用する。

《あらためて「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる。

 多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

 一方の「キャラクター」とは、

「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの

 と定義できる》(伊藤『テヅカ・イズ・デッド』p95)

 ようするに、マンガの「キャラ立ち」にはふたつのレベルがあるということになる。(A)図像レベルでの「キャラ立ち」と、(B)物語レベルでの「キャラクター立ち」だ。(A)の意味での「キャラ」は、伊藤によれば、それと特定されうるデザインとともに固有名を持ち、「人格・のようなもの」を表象するものだという。

ここで、ギャグマンガ・サンリオ的なキャラクター、伊藤氏のいうところの「キャラ」、プロトキャラクターと、小池一夫的な「物語を背負ったキャラクター」に分類している。確か、大塚氏の本では、手塚的なキャラクター:物語を外部に持ったキャラクター=単体であればただの素体、と、石森氏的キャラクター:物語を内部に持ったキャラクター、に分類していた。この、物語の内在性←→外在性、プロパティーの多寡、その変遷、を考えてみるのもおもしろい。