htt://d.hatena.ne.jp/matakimika/20050826#p2
北方三国志の戦(いくさ)用語「揉む」の重要性が、おれの中でも徐々に確かなものになってきた。いまひとつ「これが揉むということだ」というのがはっきりとはわかっていないのだが、「揉みに揉むぞ」とか言われればなんとなく納得するところがあるから不思議だ。
たぶんだけど「戦列の押し引きの緩急を計りつつ衝突を繰り返し、自分の部隊の統制は堅固に維持しつつ敵方の指揮系統を混乱させる」とかそんなかんじかと考えている。そこに筋や骨や神経が通えば兵士は意志を持つ軍団となるが、それらを乱しバラバラにしてしまえばただの肉塊と化し、肉は揉みに揉んで柔らかくしてからおいしくいただくという寸法。前線は常に混乱との隣り合わせだから、戦っているどちら側にもリスクはある。そこでいかにして自分の側の混乱を制御し敵側だけを混乱させるかが指揮官の手腕といえるのだろう。戦略や戦術の曖昧な戦争はいくらでもあっただろうが、どのような戦争であれ前線というものは必ずあったろうから、この「揉む」の要点さえ押さえておけば戦争は語れる、というような世界観上の三国志。
面白い。
戦闘が無線で管制できるようになったのは、今世紀に入ってから。それまでは、烽火とか早馬とか伝書鳩とかテレパシーとか。戦線は、第一次世界大戦から第二次世界大戦が最盛期。"戦線"を形成できるだけの人数、弾薬、そして戦線を維持する機関銃と有刺鉄線と塹壕と鉄道網。大戦後は、散兵線みたいな雰囲気に。鉄砲時代は"戦列"。横一列に並んで、太鼓の音で前進。相手の顔が分かるくらいまで前進し、一斉射撃。何回かやって、相手の戦列が崩れると、銃剣突撃。
何が言いたいのかというと、(ある種の)ゲームや(ある種の)戦記小説であれば、ユニットはあくまでもユニットで、突撃といったら突撃し、死守といったら死守し、敵地の真ん中でもコントロール可能となる。けれど、実際はそうではなく、ちょっとしたことで、部隊としての機能が崩壊してしまうんだなと。
フィクションだと、主人公側の突出は「敵を二つに分断し」、敵を崩壊させ、敵の突出は「敵の主力をおびき寄せ」「包囲殲滅」というパターンとなり、ご都合主義じゃないかと憤慨したものだけど、揉み耐性ということで。