理想主義的・現実主義的

好みとしては、日本という集団に普遍的に適応される理念を設定し、その理念に基づき細則を制定していく。そうすれば、皆対称に法の恩恵(や制約)を受けられるのではないか、そう思っている。その理念は憲法と呼ばれ、概ね良好に運用されているのではないかと思う。
実際は、個人個人が小集団に所属し、集団の自明を実力で証明しあい、勝ったもの勝ち、負けて嫌なら集団を作り対抗しろ、という状況であって、結束の弱く、マイノリティーにはちょっと不利。


関連

 くり返しますが、たかがタバコのことです。しかし、その「たかが」のことですら、ひとはこれほどまでにかたくなになる。そうだとするなら、人種問題だの、宗教対立だのが解決できないことはあまりに当然といえるのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20090519/p1

 いやだから、なにが「たかが」であり、なにが「たかが」でないのか、それを決める資格があるのは誰なのか、そこが問題なんじゃないかな。ある人の「たかが」は、別の人にとっては命にも匹敵するものかもしれない。そういう相対主義を無制限に広めると、公共の福祉なんていうものは成立しなくなるので、一定の基準を制定し、細部は個別に判断していくことにはなるけれど。
 留保なしに、「たかが」を振り回すと、「たかがエロゲ」と言われたときに反論しにくいような気もするが、「たかがタバコのことだ。なぜたかがだって?自明だ」勢力や「たかがエロゲのことだ。なぜたかがだって?自明だ」勢力、「たかが○○○のことだ。なぜたかがだって?自明だ」勢力が、カラシニコフやコルトで撃ちあって、最後まで立っていたのが本当の自明、というのが最終的解決に便利かもしれない。



サリンは、「たかがサリン」ではなかったし、今後も「たかがサリン」とは言われないだろう。
石炭の煤煙は、「たかが煤煙」だったし、高度成長の頃には「たかが煤煙」では無くなった。
ディーゼルの排ガスは「たかが排ガス」であり、慎太郎知事により「たかが排ガス」では無くなった。
副流煙は「たかが煙」と言われていたが、WHOなどの働きにより「たかが煙」とは言われなくなった。

対立する集団間で基本的合意なしに、「たかが」と価値評価すると対立の解決からは遠ざかるような気もするが、「たかが『たかが』という言葉を使っただけじゃないか」というオチかな。