http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_4f93.html
定義によるとしか言えないと思うのだ。
ということなのだけど、過去の引用を再掲。
歴史の叙述においては、出来事を時間的に配列して叙述するストーリーと、出来事を因果関係によって叙述/解釈するプロットとは通常区別されるが、しかし、プロットの違いが歴史像―歴史叙述の差異を生んでいく。
http://d.hatena.ne.jp/cogni/
明治維新という出来事は、どのような因果関係の連鎖として扱われるかによって、異なった歴史像となるだろう。つまり、プロットの相違によって、同じ歴史の過程が異なった物語となっていくのである。江戸幕府が倒れる過程を叙述するとき、開港から書きおこすか、天保期の社会矛盾から始めるからは歴史観の相違で決まるが、叙述のレヴェルに置いてはプロットの相違となるのだ。
創作の際、プロットをきちんと決めてからストーリーを叙述する場合もあれば、プロットは厳密に設定せず、ストーリーの記述を先行させる人もいるだろうし。
テキストライターを100回経験しようとも、シナリオライターにはなれない。
シナリオライターになるためには、テキストではなくシナリオを書かなければならない。つまり、すでにシーンの目的もプロットの配列も決まっていて、具体的な台詞を書くだけというレベルでは、永遠にシナリオライターにはなれない。
けれども、今の業界は、テキストライターしか生み出さない風土に変わりつつある。2年で書き手たちが救いようがないレベルにまで低下し、書き手の空洞化が始まるだろう。
http://sultan.blog1.fc2.com/blog-entry-180.html
ストーリーを記述したアウトプットを「シナリオ」と呼んでいると思われる。
http://d.hatena.ne.jp/REV/20060630/p2
http://d.hatena.ne.jp/REV/20060110/p2