自由意志

http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20060128#1138384111
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そして「いま」も嘘ではないのか。以前「受動意識仮説について」という記事を書いた。『マインド・タイム 脳と意識の時間』という本も出ているけれど、カリフォルニア大学のベンジャミン・リベット博士の実験によると、人が何かをしようと意図するより0.5秒も先に運動神経は動き出している、とのことである。これはつまり、実際に体を動かす指令は脳のどこか他の部分から出ており、その結果を後から受信した「自由意志」が、オレが動かした、と「勘違い」しているに過ぎない、ということである。ここで考えられるのが、遅延は別に0.5秒でなくてもいいということだ。ボールが飛んできてそれを避ける、という動作があったとする。実際の避ける動作は脳の他の部分の指令によって既に行われており、その「録画」が「自由意志」に届く。「自由意志」は飛んでくるボールを見て「避けろ!」と命令する。しかしその命令はどこへも届かず「捨てられる」(既に避けた後なので問題ない)。ここで、「自由意志」に「録画」が届くのは、0.5秒どころかずっと後でも構わない。ぼくらが野球やサッカーの放送を見ても、録画と気づかなければ生放送と同じように「いけー!」などと興奮できるのと同じだ。

 読まずに書く。
 別に不思議でもなんでもない。
 自由意志なんて、脳内議会の決議のようなものじゃないかな。自由意志は、総理大臣。大掛かりなプロセスは、脳内議会の決議を経て、首相の名で実施するけれど、プリミティブな行為は、所轄官庁が勝手に進めている。そんな感じ?

ぼくらが「ひとりにひとつの心が備わっている」と感じる理由も、単に脳に対し人間1体分の入出力しかないから、ということなのではないかという気もしてくる。

 感感俺俺。


 クラスターの集合であるところの何かに、「心」という何かをみつけ(だから非生物にも心を読み取ることができる)、さらに、自らを「鏡」に映すことによって、自らの中に「心」を見つけようとする。その際、引き上げたクラスターには「自我」という名前をつけ、引き上げなかったなにかには、超自我とか超先生とか超兄貴とか名前をつけた。そう解釈する。たんなる解釈だけどね。
 人間の心はクラスタだと考えているけど、なんかデカルト製の数学エンジンを中心に備えている人もいるらしい。精妙なる無矛盾製を発揮し、世界のすべてを救う理想と、悪の権化たる米帝が供給するカロリーの摂取、東アジアの労働者の搾取の上に立つ安い工業製品の利用、政情不安定な国から供給される思考飲料の摂取を両立させることができるらしい。さすがデカルト