"世の中の 全てに反対してたから 世界の不幸は 他人の責任"

とにかく、全部に反対しておけば、失敗した時は「だから言ったのに」
成功した時は「俺が反対意見を出して鍛えたから成功したんだ」
ってなる。構成員全員が反対意見しか出さなくなったらどうなるのか気になるが、そんときは留保の無い生の肯定を叫ぶのだろう。

"俺はブレーキを踏む係、アクセルを踏む係は別人。ブレーキのない自動車は暴走車"

実際は、ペダルを踏む係と、ブレーキ踏んでキャッキャと楽しむ係の二種類に分かれる。
ネットだと、前者が優勢だが、実社会ではペダルを踏む係はそこそこの求人と給料支払いがあり、前者は求人も給料も少なめ。


構成員全員がペダルを踏まず、ブレーキ踏みしかしなくなったらどうなるのか気になるが、そんときは留保の無い生の肯定を叫ぶのだろう。

綺麗事の法則、言い出しっぺの法則

「綺麗事を言うのなら、お前がまずその綺麗事を世界に実現しろ」ってもの。これを言われると、綺麗事が言えなくなる。
「言い出した人がまずやれ」の、言い出しっぺの法則と似ている。「言い出しっぺが先ず着手しろ」どころか、「言い出しっぺが全部やれ」って場合も。

こういうことを言う人は、攻守逆転すると
「俺はきれいごとを言う係、お前はそれを実現する係」って言い出す可能性が高い気はする。

同じことなんだけど

「公共に対して皆が自制することで、円滑な生活を送ろうとする」タイプと、
「公共が個人の逸脱を許容することで、個人の豊かな生活を保障しよう」とするタイプに分かれている気がする。


後者は、「個人の逸脱による社会的損害や超過コストは、広く薄く負担すればいい」と主張することが多い印象*1


ともあれ、前者から見ると後者は「わがまま」で、後者から見ると「俺の人権を侵害する国家主義者」に見えるようだ。


国際的には後者が優勢だが、それを許すほど日本の土地は広くない、っていうのが感想。
あとは、日本は「法の支配」と「法治国家」が使い分けられていて、「個人の逸脱が先行したからといって、公共の責任が減じられるわけではない」とかそういう話になりやすい。

*1:ただし、それはベストケースで、「公共の事例担当者がなんとかしろ。出来なきゃヤメロ」あたりに落ち着く