ホロコーストって言葉が出ただけで過剰とも思える反応をする人がいるのは、相手が「悪の凡庸さ」っていう人文系の常識を踏まえていることを知らず、自分が悪意の人として糾弾されていると思って身構えちゃってるんじゃないか。まず、ここから説明しないと。
http://d.hatena.ne.jp/mujin/20080817/p1
この文を読んで、
http://www6.ocn.ne.jp/~fleur/zakkicho007.htm罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼互いに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしないものは、またそうした危険におちいりやすいのです。
(1985.5.8. 演説の一部『荒れ野の40年』より)
を思い出した。
この文を検索している途中、
同じく、元オーストリア大統領=ワイツゼッカー。
彼は言う。
「罪のある者もない者も、老若男女いずれを問わず、われわれすべてが過去に責任を負っている。」
ワイツゼッカー大統領の有名な「荒れ野の40年」
しかし、この言葉はあまりに空虚だ。
「総懺悔」的発想の元に、自己責任を薄める知らずの悪意を見る。
ナチの高官であった責任・ナチの党員であった責任・ナチに同調した責任・ナチを支持したキリスト教会の責任・ナチを選択した当時のドイツ人の責任。
取るべき責任はいくつもある。
それらを一括りにするその発想は、責任の所在を不明確にし責任を無限に拡散させるだけでしかない。
ユダヤ人絶滅政策の反省の深みがない。
個人が取るべき責任と国家が取るべき責任。この二つも明確に違う。
個別の責任が根幹にあってこそ総体としての責任がある。そして個別責任は総体としての責任に帰すべきではない。
個人が負うべき責任を追わない立場からは何も生まれない。
幾度もネオナチが登場する原因をそこに見る。
「国家として反省したのだから、もう個別の責任はないのだ」 … かような稚拙な論理である
http://gaki1959.hp.infoseek.co.jp/omoi/omoi38/omoi38.shtml
この文を見つけた。
ワイツゼッカーの『荒れ野の40年』を引用し、それに比べて日本は、という展開を時折見かけるが、これを空虚と呼ぶのはなかなかできることではないな。