投票すること

 なんらかの、選考会をする場合、ある程度要件を決めないと結果の評価は難しい。
 小説大賞、なんていう場合は、「売れるであろう作品」とか「評価されるであろう作品」を選考者は選ぶわけだ。もし、自分が選んだ作品が売れなかったり、評価されなかったり(逆に、自分の選ばなかった作品が評価されたり)した場合、選者の評価が下がる。もちろん、顔色を見すぎて全員一致でヘタを打ったり、選者のポリシーが感じられない投票行動をしても、選者の価値が下がるので、まあそういう感じで。
 評価軸には色々考えられて、「初心者に勧める作品」「埋もれた名作」などあげられるかな。単なる広範囲な投票の場合、売れた作品のリスト、に類似する可能性がある。ある種の雑誌の「歴代ベスト作品」投票が、最近のタイトルの売れ行きベストとあんまり変わらなかったりする、そんな感じで。
 じゃあ、ポリシーを前提としない投票に、意味はあるのでしょうか、と形式疑問文を書いても仕方がなく。
 COTYは、ジャーナリストだっけ?が今年の車、を決めるもので、ある年は速いクルマ、ある年は環境に配慮したクルマ、ある年は完成度の高いクルマ、ある年はユニークなクルマ、みたいに、ある意味で、基準軸を選ぶ投票、になっている*1
 そんなわけで、ラノリン杯はその運営ポリシーについて、あまり口を出すことはないかな。紫、円環少女が意外に票をあつめていたのは印象的。Bloggerは結構ロ(以下略)。2006年になると、SHI-NOや、ホロが入ってくるのが楽しみ。

変にからまずにS/T/T

(僕個人は『サマー/タイム/トラベラー』にも『涼宮ハルヒの憂鬱』にも別に何の屈託も拘りもないです。『さくらむすび』でSFガジェットに頼らなくても武器を手にしなくても「現実」に宣戦布告し「世界」を覆すことが出来るって知ってしまってるので。)--http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060622

 自分個人が過去にも、現在の現実にも屈託持ちまくりなので、なにか引っかかる作品を見つけると、そこから過剰に意味を読み取っているのです、と態度表明することに留めておきます。

*1:なんか、裏でカネが一杯動いているらしく、そういうものを想像するのも楽しみの一つらしい