合言葉は、「メカ」「メス」「メタ」

 ある種の人間には、自分を仮託できる"対象"が必要なのだろう。"物語"といってもいいけれど。それは、未来とか、現世とか、神とか、社会主義の楽園とか、科学とか、かもしれないし、文学かもしれない。もしかすると、それはエロゲかもしれない。"対象"と一対一で向かい合うという、禁欲的な態度かもしれないし、"対象"と向き合うコミュニティーに魅力を感じるのかもしれない。大きな"対象"、大きな物語に対峙し、小さな"対象"を作成し、小さな"物語"を完遂する、その達成感を求めるのかもしれない。

 自己を仮託するには、"対象"に十分な強度が必要だ。強度を増し、維持するには、やはり様々な手法がある。創作であれば、緻密な設定を用意する。大きな物語を背景にする。支持するファンを増やす。人物造形を多様にする。
 強度を維持する、別の経路として、"対象"から弱点を補強すること、も考えられる。現実に近い"対象"であれば、現実に拘束され、現実と比較され、十分な強度を保つことが難しくなるかもしれない。創作の位相を"現実"から切り離せば、より強い作品世界に飛び込むことができる。ここで、鑑賞者は飛躍を経験することになるが、これは慣れるものだ。
 オタク世代、ゴホンゴホン、昔の作品群は、大人が自分を仮託するには未熟であると社会が判断していた。"対象"の強度を、科学に求めたのがあのへんで、製作者との暗黙の意思疎通や、鑑賞者側で設定、背景、ディティールを補充したのがそのへん、と分類してみる。
 時代が下り、船が空を飛んだり、機関車が空を飛んだり、コロニーが落ちてくるようになった。家はまだ空を飛ばない。作品の強度は、設定で、メカの描き込みで、人間関係で、背後にある大きな物語で、さらにはファンの拡大で、保たれるようになった。また、プラモデルの充実も見逃せない。立体として実在する、プラモデルは、"対象"の実在を強力に支持した。
 強いアニメ作品というと、この後は、美少女戦隊と、精神世界を描いたアレ、ということになる。それまでに登場した、"対象"の強度を増す手段というと
・声優の魅力
・キャラクターの性的な表現
・プラモ、フィギュア、ガレキ 
・ゲームとしての強度 : シューティング、アクション、格闘、RPG
・二次創作として、関係性の補強 : 女性向け創作
・トリックの回収、伏線としての世界設定の回収 : 推理小説、伝奇
・同人からの商業化からの同人出版という連携による、緩いコミュニティーへの取り込み : 同人作家の商業化

 なんかが列挙できると思う。で、ここで、また、仮説を書いておく。現実感を感じさせることで、"対象"の強度は増すが、それでも現実との齟齬は残る。現実を切り離すことによっても、"対象"の強度を増すことができる。但し、現実との飛躍、が必要になる。簡単にいうと、リアルなリアリティーから、まんがアニメ的リアリティーへの移行、というもの。この飛躍は、簡単なものではなく、二つの要因によって崩され、鑑賞者は現実世界へ戻され、幸せな作品世界から離脱しなければならなくなる。
 その一つは、作品の限界。作品の内部を疾走している間は、強固であった"対象"の強度も、立ち止まった瞬間、現実が追いついてくる。食べきれないほどのガジェット、年表、設定、関連商品、新キャラ、新作同人誌。そのようなもので飽和攻撃されなければ。簡単に言えば、飽きられやすい作品とそうでないもの、浅い作品と深い作品、の違い。
 もう一つは、鑑賞者の感受性。"対象"の受容に、より強い強度を要求する鑑賞者と、そうでない鑑賞者。それは、単なる資質かもしれないし、"対象"の外部にある資源に、どれだけアクセスできるか、という問題かもしれない。

 この、現実世界と"対象"、作品世界、もっと簡単にいえば虚構、との対立を止揚アウトバーン←嘘)するものとして、メタな視点の導入がある、かもしれない。よく言われる、メビウスの輪。虚構世界から、ふと現実へ回帰したときのイヤな感じをメタな回路で緩衝する、要は知っててやっているんだという開き直り回路。"対象"の強度を上げる、のではなく、弱点を防御するという方向。80年代後半から、90年代前半にテレビアニメで散見された「燃え」は、スパロボ的な背景を持った燃えであり、リアルロボ系と比較し、あえて行われた燃えであった。そのへん、以前のスポ根的、マジな燃えと異なる。"対象"内部の緻密な設定、大きな物語、の代替として、設定を犠牲にした、より大きな物語を設置し、ベタであると予防線を張って"対象"の強度を維持したものだ。新世紀の福音たるアレの出現まで、アニメとしてはメタな視点、ベタな開き直りを排除して強度を保つ、男性向けの大きな作品は登場してこなかった。まあ、アレは最後にやらかしてくれたわけだが。

この経緯を振り返ると 
・対象の強度を、ツッコミで補強する世代
・対象の強度が、対象それ自体が備える物語と設定で補われた世代
(・対象の強度を、二次創作のネットワークで補強した世代)
・対象の弱さを、ゲーム性やメタな視点、性的なアレで補強した世代
・対象の強度が、対象のキャラクターの内面で支えられ、それを鑑賞者の内面との共鳴で維持された世代
と変遷し、
・対象の強度が、対象の内部でなく、データベースとの接続によって確立された世代
となった。
今後は、
・物語すら、対象の外部に参照される存在になっていく
時代となり、その先駆けが、キーワードで論争が起きたアレだろう。

また、データベースへのリンクが容易になり、
・データベースへの接続は、断絶を伴う飛躍が必要であった。鑑賞者の内部における断絶が少なめで、メタやベタやSFで保険を掛けておく必要のない世代
が台頭してきた。彼らを、自省のない世代、と言う人もいるし、自己を作品に仮託する必要性がそんなにない世代、と評価できるかもしれない。後者の場合でも、単に強い自己を持っている、自己をネット、ケイタイに仮託している、と考えられるかもしれない。この辺の評価は後世に待たれるところ。

 さて、もともと、主に文章のみで記述される作品は、画像、音楽、声、エフェクト、そういうものの援護が受けづらく、現実が頭を上げて射撃してくる。そういう人たち向けの作品では、SF設定で、作品内部のファンタジー設定で、PRGの設定を引用して、強度を保ってきた。近年では、単にキャラクターの外形を表示するのではなく、文中の記述から、イラストの表現を通して、データベースに接続し、作品強度を確保するという回路が生まれている。二次創作的手法、といえないこともない。イラストは、代替可能な単なるグラフィックではなくて、外部のデーターベースと接続するproxyであり、これを排除するとエラーがおきるのだ。一部、イラストを意識的に排除した作品もみられるが、それは、作品世界内部で完結した、という場合と、イラストを経由しなくても、データベースに直結できる鑑賞者が増えた、と解釈している。作品世界からの排除を嫌い、作品世界を停滞の中に保つ、ある種のカテゴリーの作品と、世界設定や人物造形を外部に依存し、物語(やトリックの連鎖)を提供する作品は、裏と表な関係だと思う。
 で、テレビアニメでは、データベースの拡大につれ、作品自体の縮小は続いている。作品内に、自前でキャラクターを設定し、世界を設定し、物語を記述する、それらに要するコストはどんどん上昇する一方、キャラクターは引用し、世界設定は引用し、ちいさな物語は引用し、中くらいな物語のみ記述する、そういう作品は低いコストで制作できるから、ラノベやゲームやコミックから、キャラが立ったタイトルを引っ張って、1クール放映というアニメが増えたのだろう。

 と、ここまで文字を連ねてきた結論は、繰り返しになるが、
・その手の"対象"群の歴史は、"対象"の強度を増し、弱点を補強し、さらに、鑑賞者の訓練を伴うものであった。
・メタも、ネタも、ベタも、作品世界の外部に向かう視点を回収し、作品の強度を増す方向に奉仕している。 

 というもの。まあ、原始共産制から資本主義、社会主義を経て、共産主義に至る世界観みたいなもの。その歴史の中で、テレビアニメを筆頭に、模型、RPGビデオゲーム、音楽、コミック、心理学、ネットワーク、そういうもの同士は相互に交流し、お互いに融合して大きなデータベースを確立していった。そんな史観を考えている。

 随時改変予定。ソースは一切無し。行き先不明な指示代名詞多数。