焼肉弁のガイドライン

「1000円で松坂牛のヒレ弁当は無理だ」という命題にたいして



自民党が悪い

「松坂牛のヒレ弁当に3000円を出せないのは自民党が悪い。自民党に投票した奴らも同罪だ。だから1000円で出せ」

相手のプロフェッションを捏造する

「1000円で松阪牛弁当を作るのがプロだろう」

丸投げする

「それを考えるのがお前の仕事」

夢のような解法を持ち出す

「IT化すれば1000円になる」

昔のことを持ち出す

「50年前に来た時には、松阪牛弁当は1000円って言ってた。嘘をつく気か」

憲法を頼る

「健康で文化的な最低限度が松阪牛である」

議論に勝つ

捲し立てて相手に絶句させてから
「論破したんだから1000円で松阪牛弁当を作れ」


三者の理解を得る責任を押し付ける

「豚野菜炒め弁当では、弁当を待つ人の理解が得られない」

納得させる責任を要求する

「弁当に5000円は納得できない。説明を要求する」
自分が納得しなければ自分が行動する必要はない。相手が自分の気に入らない行動をとる/取らない場合には自分の納得が条件である。このメンタリティを涵養したのが戦後民主主義か。


順序を設定する

「まず1000円で松阪牛弁当を売れ。それが消費者の満足を得られるなら値上げしてもいい」

分類を変える

松阪牛を和牛類ではなく、5類…じゃなかった、豚肉類に変更すればいい。そうすれば、野菜肉炒め定食の値段でどこの町中華でも提供される筈だ」

追加

進歩史観を取り入れる

「松坂牛だからと高い値付けをしていては進歩がない」

別のことを持ち出す

スマホの通信台はずっと安くなった。松阪牛も安くなるべきだ」

頼ませる

畜産農家に、キロ1000円で売るよう頼んで来い」

お願い連鎖

「私が頭を下げるから、1000円で松坂牛のヒレ弁当を売ってくれ。あなたは頭を下げて業者から松坂牛のヒレをキロ1000円で売ってもらえばいい」
頼ませる、とほぼ同じ。

自分の納得を要求する

「1000円で松坂牛のヒレ弁当が食べられないなんて納得がいかない」
「1000円の松坂牛のヒレ弁当が出てくるまで「納得がいかない」と言う。
理解が得られない、と同等かな