雑記

詭弁の外部化

「犬が哺乳類でない理由を考えるのが政府の仕事だろう」

日本のコンテンツは海外を志向すべきか

 ミクロでいうと「すべきでない」ってところなんだけど。


 カタストロフィ理論って知ってるかい?知らないけど。
 世の中の多くの物は、入力と出力が比例関係*1にあったりする。コップの水は傾ければ傾けるほど沢山流れるとか。ただ、そういうものばかりではない。ドロッとしたものは少し傾けても流れず、ある程度を超えて傾けるとドチャっと落ちる。斜面の雪も、少しずつ融けることもあるけれどチョロチョロチョロと融けてドサッと落ちたりする。皿の中の玉も、少し揺らしただけだと皿に戻るが更に揺らすと縁を超えてドチャっと床に落ちる。「事象は、最小値ではなく極小値をめざす。揺らぎが大きくなると最小値に移行する」って話だ。


 萌えコンテンツに限らないが、日本のコンテンツは日本で切磋琢磨され日本人に最適化され日本人が最も好むスタイルになっている。しかし、それは小さなジャンルでの話であり、別個のジャンルで巨大なコンテンツが立ち上がり日本のユーザーがそちらへ移行する可能性を否定するものではない。海外志向っていうのは、「イタリア向けにバジルトマトラーメンを作り、タイ向けにトムヤムラーメンを作り、インド向けにガラムマサララーメンを作れというのか」って話ではなく、海外を含めた巨大な市場に向けてリッチなコンテンツを制作することであり、そうしないと「貧弱なシステムによる最適化された表現」より「日本に最適化されてはいないが海外で制作された豊かなシステムによる体験」を志向する人が増え、結果として日本人による日本人のためのコンテンツが衰退し、「ハリウッド作の世界向け映画で日本人向けキャラがちょい出演した」「ハリウッド作の世界向けアニメで日本スタイルの(略」と喜ぶような時代にならないとも限らない。


 「ミクロの最適と、マクロな最適の調整が政府の仕事だろ」尤もで御座います。

*1:正比例とはいってない