不良少女たち

 人は、迷惑を掛けて生きていくものであり(分析)、それを許容すべきである(当為)。
 そう思っている。
 ただ、それはもちろん、公共性や自由意志との兼ね合いであり、本人の自由意志によらない「迷惑」は許容される度合いを広く持つべき(当為)であり、自由意志によるもの、公共性の低いもの、であれば、許容の範囲は狭くても仕方が無いと思う。

 (注:高齢者が車椅子で移動する場合、社会に掛ける負担が増えるけど、それは「移動能力が低いため、車椅子を使わざるを得ない」と、考える。「移動は自由意志なので、掛かる負担は自己負担であるべき。嫌なら動くな」とは考えていない)


 ゼロリスク、ゼロハーム、zero-tolerance policy、が「正しくない」ことは、すべてのハームが同等に許容されることを意味しない筈だ。


 まあ、子育てとか、禁煙問題とか、心のスイッチをピンポンダッシュして注目を集める記事に釣られた安い魚の俺乙。

はっ

 極度の自己責任論だと←藁人形、ドラッグ濫用者の更生プログラムなんかも「自己責任だから公金投入の必要なし」なんていうのかしら。

良い自己満足と悪い自己満足

 ↑と同様に、人は、生理学的な自己報酬のために生きている(ちょっとニセ科学的)。
 そう思っている。
 ただ、それはもちろん、公共性や社会性との兼ね合いであり、社会性の高い自己満足、会社が発展して、新商品が売れ顧客は喜ぶし、俺は金が儲かるし、従業員も働き甲斐があり嬉しい、という自己満足は賞賛されるし、詐欺で儲かって嬉しい、という自己満足は賞賛されない。
 子育てが嬉しい、もっというと、「誰かが喜ぶのを見て嬉しい」という、社会化された自己満足は、結構賞賛されるし、「他人が不快に思っても、自分が嬉しいから嬉しい」という、反社会的な自己満足は、それほど賞賛されない。