正しさの無い世界で正しいこと

そもそも能力の異なった、不均一な集団を相手に「機会の平等」を説く欺瞞というものは、 能力の不平等性をみんなが受け入れた時点で、その効果を失うはずだけれど、 その代わり、ならば能力が不均一な人達を相手に、どんなルールを敷くのが一番「正しい」のか、 そもそも正しさという価値軸が必要なくなったはずの不均一な集団にどうして正しさが必要なのか、 このへんになると、もう想像力が届かない。

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「能力のある者が、能力の無い者の全てを奪う!弱肉強食!焼肉定食!!」
そんなスローガンだと、強い戦士が200人くらい集まるかもしれない。二刀流だったり、鎖鎌を持ったり、棒をもったり、とにかく強いの。でも、
「強いもの同士、仲良くやろうや」
だと、1000人くらい人が集まる。前衛が長い槍を持ち、盾を構え、後衛が弓矢の雨を降らせたり。相手が怯んだら、みんなで槍を構えて突撃。なんとか返しとか、秘剣は要らないけど、結構強い。
「強いものも、弱いものも、平等にやろうや」
と、うまく煽てると、10000人くらい集まる。弱いものは、何か図面書くかもしれないし、砲弾磨くかもしれないし、パンを焼くかもしれない。なんとか和尚の下で修行を積まなくても、鉄砲は撃てるし、寺で坊主にならなくても、大砲は撃てる。最前線で100人くらい頑張ると、後ろで9900人位が食料を運び、弾薬を運び、砲兵隊が支援砲火を浴びせ、観測機を飛ばす。


 で、平等の夢が崩れると、「前線の兵隊は無駄金ばっかり使いやがって、しかも威張って」「後方は楽ばっかりしてやがる」と集団は分裂し、砲弾は倉庫で腐り、砲兵隊は敵歩兵に浸透され、歩兵は砲撃に釘付けにされ、航空機は地上で破壊され、10000人が1000人、いや200人に倒されたりする。


 諸行無常よのう。