ツイッタなるものに入会してみたが、addだかfavだか入れていないので何が面白いんだか解らない。

ラノベのイラストの話

 脊椎動物の感情は、体の力の入り具合で語られる*1ので、平たくいうところのデッサン力は、表現を結構左右する。でもまあ、不足分をテキストとかBGMで補えるのがゲームとかラノベのいいところで。
 あと、(基礎的な)技術力の向上は、数をこなすこと、有能な指導者に師事すること、が必要かもと思う。昔は、アシになる、芸術学科なんかで課題をこなす、なんかがあったのだろう。アニメーターへの進路は良く分からない。で、一時期はゲーム系デザイナー、というのもあったか。
 あと、いつも不思議に思うのだけど、内容云々の話。特に、小説って、読まないと面白いかどうか解らないよね。で、売り上げの過半を発売一週間で、その過半を発売後数日で売るのがライトノベル。初速は、タイトルのプロモーションと、表紙イラスト、そして作者のネームバリューで決まる気がする。もし、ラノベ作家買いされるなら、今頃A/Bエクストリームは重版だぜ!

そういうわけで

 ラノベの(一部の)イラストが、萌え偏重(に見える)減少は、サーベル大河の牙が長くなり、孔雀の羽が華美になる、性淘汰に近い現象を連想するな。このまんまじゃ、氷河期を生き延びられないぜ。俺は牙を短くする!と頑張ったサーベル大河は、異性にモテずに遺伝子が残らないの。出版社は100も承知だと思うけど。


水はH20

 Webに書いた文章、つまり、つまらないけど、TCP/IPDNSの向こうにある記憶領域にある文章*2を、日記であるとか、プライベートなものであるとか、意図を以って他人の行動を規定する心境が不思議。水にきれいな言葉をかけると、美味しい水になるくらい不思議。


またどうでもいい話

 私は、ネット上の文章を、WWWに接続された1ファイルと認識している。ので、別に文章の削除改変それ自体に倫理的価値判断をしない予定。テキストサイト、新聞社ニュース、なんかは、同じURLのファイルを書き換えたり、消したりしているが、それ自体を非難するつもりはない。同様に、Blogでも同じ考え。
 もちろん、削除を伴わない訂正や、削除した旨の表示、例えばはてなであれば、コメントアウトの形で原文を残すことも可能。そういう選択肢のなかで、削除を選んだ場合、意図を問われるのも、それまた仕方がないかな、とも思う。

*1:本当はその逆だと思うけど

*2:これも不正確な表現だけど。リクエストに応じて生成されるファイル