我らが皇軍の実際:山本七平氏の戦場描写

http://d.hatena.ne.jp/odakin/20060827#p2

 A級戦犯合祀当然とかいってるウヨ坊はいっぺん我らが皇軍というのが実際の所どういうものだったのか知るためにも是非是非これを読んでみてください。プロ市民の書いたものじゃなくて(物凄いアレな言い方をすれば)大東亜戦争にフィリピンのルソン島で砲兵として従軍し戦後は保守反動(笑)右翼評論家として諸君!なんかを主戦場として本多勝一なんかと戦ってた人の本ですよ!

「六キロ行軍」とは、一時間の行軍速度が六キロの意味だが、これは小休止、大休止を含めての話だから、大体がかけ足になる。演習では一割から二割は倒れることを予定してやるわけだが、戦場では落伍兵はゲリラの餌食だから、「死ぬまい」「死なすまい」と思えば、文字通り蹴っとばしても張りとばしてもあるかせなければならない――これは「活」であって、前にかいた私的制裁とは根本的に違う。そして実をいうと、「活」を入れられている者はもちろん、入れている者も、目の前がくらくなっていて、半ばもうろうとした状態なのである。

ところが、これらは日本軍の基準では普通の状態で、戦闘という極限状態でもなければ、敗退・全滅という最悪状態でもない、日常の行軍なのである。しかし世界的基準で考えれば、当時の世界でも、この状態そのものが、到底考えも及ばぬ残虐行為だったのである。

 それは「バターンの死の行進」によく表われている。炎天下の強行軍で、米比軍の降伏部隊がバタバタ倒れた。「なぜ車両を使わず、かかる想像に絶する残虐行為をしたのか」というわけで本間中将が銃殺刑になったわけだが、日本軍の基準ではこれが普通の状態で、日本兵自身が炎天下にバタバタ倒れながらの強行軍を強いられていたわけである。従って当時の日本軍の将軍たちは、当時の世界的基準でみても、全員銃殺刑にされて然るべき残虐な行為を、日本軍の兵士に対して行っていたことになる。