認知な話

日刊良スレガイドさん「もしかして色ってさ人それぞれ見た感じが違うんじゃないの?」

http://guideline.livedoor.biz/archives/50589881.html

「赤いトマト」と内部コード

だから、みんなで「赤いトマト」を見てお絵かきしましょうって言っても

「青く」見える奴がいるの。そいつにとってのトマトの「赤」は

みんなにとっての空の「青」に見えたりするの。

でもそいつにとっての「赤」は「赤」だから絵の具を選ぶときは「赤」を選ぶの。

だからそいつとほかの奴の絵を比べても違いはわからない。

見え方がずれていても選ぶ色は皆同じだから問題は生じない。

本人も周囲もずれに気がつかないし、確認が出来ない。

要するに、自分の知覚の外には出れないし、

他人の知覚の中にもはいれないわけ。--http://d.hatena.ne.jp/kagami/

 だから、みんなで「赤いトマト」を記述しようって言っても
「青く」記述する奴がいるの。俺たちにとって、赤は[FF0000]だけど、そいつにとって『赤』は[0000FF]なわけ。でも、そいつはカラーパレットで[0000FF]は、低い波長の画素を光らせるため、そいつの絵と他の奴の絵を比べても違いが分からない。
 で、内部コードがSJIS、JIS、EUC…であることに、哲学的意味はありますか?わたし、気になります

全然わかりませんでした。

さて、眼の誕生がどうして生物の爆発的進化を呼び起こしたのか。地球の生物はカンブリア紀になって初めて世界を見た。そして、それまでは真っ暗闇のなか触覚や嗅覚でもぞもぞと探るしかなかった餌が、まさに目の前を動くのが見えたのだ。そうして、見える餌を捕まえやすくするような体の変異がきわめて意味をもつようになった。同時に餌として捕まりにくくするような体の変異もきわめて意味をもつようになった。

《地球を照らす光のスイッチがオンにされ、先カンブリア時代を特徴づけていた緩慢な進化に終止符が打たれた。》

《新しい原則が必要になっていた。あらゆる動物が、視覚に適応するための進化を迫られた。もたもたしていれば食われてしまうし、獲物におくれをとってしまう。かくしてカンブリア紀初頭に、視覚への適応レースが演じられた。新たに利用可能になったニッチの奪い合い、現行の「生命の法則」が成立するまでの大混乱こそが、カンブリア紀の大爆発だった。これでようやく、確信をもって答えられる。カンブリア紀の爆発は、視覚が突如として進化したことでひきおこされたのだ。》--http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060705#p1

ここでおもしろいは、目の向きで「意図」が発生し、他人の目を見ることで意図を発見し、と繋がっていくことかな。


認知科学とアニメとトゥーンシェーディング

 つまり、コミック文化とかアニメに人間がはまりやすい理由は、それが「脳内の一次情報処理を既に終えた後の画像である」という事が本質的にあるんじゃなかろうかと思ってる。コンピュータに例えればソースコードではなくてコンパイル済みのバイナリコードを与えられているようなもんな訳だ。

 そう考えると、いままでCGアーティストとかゲーム各社がやってた「フォトリアルな画像」という目標ってのは、実は「プレーヤーの脳に与える画像処理負担をどんどん増やしてく」という果てしなく無意味な努力であったという事になるんだよな。どんなにフォトリアルな画像を作ったところで、結局は視覚野でベクタ化されてワイヤーフレームみたいなデータに還元されるわけだから。

 「フォトリアル」を売りにするよなゲームを作ってる人は、そのゲームがワイヤーフレームだけになっても面白いかどうかをいっぺん確認した方がいいと思われ。--http://dam.cocolog-nifty.com/tabiji/2006/04/post_bac1.html

 うーん、揚げ足取りで恐縮だけど、フォトリアルは無意味じゃないと思う。
 見るたびに、発見のあるフォトリアルならいいわけだ。喩えを用いれば、「コンパイルの度に、違ったバイナリを出力するソース」みたいなもの?電車の窓なんか、動いていれば結構飽きなかったりするでしょ?コンパイルするたびに、同じバイナリしか出てこなければ、それは無意味だろうな。