アトモスフィア志向型、オブジェクト志向型

http://bmp69.net/mt/archives/2006/03/post_336.html

この他者の内面の存在をはじめから考慮に入れず、空虚な器に自らの欲望を投影して喜ぶ態度こそ、「萌え」の本質でしょう。そのため、『下級生2』の騒動のときのように、対象が自らの欲望にそぐわない内面を持っていることが明らかになると、基地外のように怒り狂うわけです。

 空気指向型、他者志向型、と言う名前がいまひとつしっくりこないので横文字で。
 観測空間の中の対象を、「空気に寄与する存在」と見るか、「他者のひとつ」と見るか、このへんは観測者のお好みによると思います。他人の心を推定するのはアレなのですが、対象を、萌え空間に溶け込ませ、ノイズを「空気を汚染する害悪」として「生理的に」排除する、そういう態度もあるようです。空気に毒が混ざる、水のピッチャー、酒樽に、ちょっとでも毒が混ざるといやでしょ?
 また、対象を、評論空間に定位させ、それぞれをまあ、彫刻のように評価する態度もあるようです。良い、こういう言い方はやめておきましょう。だれかの評論によって、ただの「石膏のかたまり」にしか見えなかったものが、意味をもってくることだってあります。無意味だと思っていた対象が、構築された非難により、意味をもった存在として浮かび上がることだってあります。


 まあ、ここで、空気を汚染するのは自分自身ではないか、という話を始めると、百合とか苺とか植物系の話になるので領域外ということで。野菜系も。