「開いた」作品と「閉じた」作品

 そういえば、自分が好きなモチーフに、閉鎖世界からの脱却、というものがあります。物理的、認識的、心理的に閉鎖世界をつくりあげ、そこに安住/拘束されたキャラクターが、そこから脱出/追放される、というものです。シナリオレベルのものもあるし、作品レベルのものもあります。また、ゲームシステムレベルで行われるものもあって、ループとかループとかループとか。


 こういう趣向を持っていると、つい作品をそういう目でみてしまい、TH2(X)などは、「閉鎖世界をつくりあげ、あえて世界観に目を向けさせない」すばらしい作品設定だと勝手に感動してしまいます。びっくりするほどユートピアです。智代アフターは、無理やり閉たら窒息死してしまった、観があります。開けておけば感動が逃げ出すし、閉じると窒息死するし、難しいものです。


 ライトノベルでは、サマー/タイム/トラベラーと、スラム・オンラインを比較した書評がありました。前者はパラダイスから逃れることができず、後者はパラダイスから脱却した、という論評をされていました。どちらも、牽強付会な読み方をすればループゲームであり、前者ではループを抜ける鍵として美少女、じゃなくて「未来」を手に入れ、後者は、「日常」というループから逃れるために「スラム・オンライン」というオンラインゲームを始めましたが、最終的には美少女のいる日常に復帰するために、「スラム・オンライン」を卒業する決意をします。んー、日常というループは(一部の)人間を消耗させるが、キーアイテム(=美少女とか関東の理想とか)が手元に存在すると、閉鎖空間のびっくりするほとユートピアにかわる。キーアイテムが無限遠にあれば、無限遠にむかって歩くことができる。そんな具合かな。「スラム・オンライン」で、日常に戻った主人公が、日常のループに耐えられるのかどうか、それが興味のあるところです。彼が独自にループのない日常に耐えられるとしたら、それがループのない都市、東京のチカラによるものかどうか知りたいところです。
 日常のループから脱却する、というモチーフで、非常に興味深いのが滝本竜彦氏で、日常のループから脱却できずに日常のループから脱却する小説を書いて、そうしたらリアルに彼女を手に入れて日常のループから脱却してしまった、というメタメタな作品のようです。


 さて、そんな私が大好きなのは舞シナリオ@KANONで、主体性をもって主体性を明け渡し、全力でもって目の前の問題から目を逸らし、捏造した敵を自ら倒す、というすごいウロボロス的なループです。完全性をもって、その最大の欠点とするユートピアを越えるユートピアと言えるでしょう。いろんな問題から目を逸らし*1、孤立したコミュニティーで結束を高め、捏造した敵に仲間と立ち向かい続けることは、真に幸せなことに違いありません。ただ、幸か不幸か、彼女たちはその欺瞞に自ら気づいてしまい、縮退したループから出てしまいました。物語はそこで終了します。しかし、作品は閉じていません。このあと、彼女たちにはループする日常が待っています。現実に回帰した彼女たちが、どう日常を生きるのか、非常に興味があったのですが、この興味を満足させる二次創作は残念ながら発見に至っていません*2






 


*1:その最大のものは(肉体的な)成長というもので、シナリオレベルではそのことについて指摘されている

*2:他の不幸少女たちの場合、ループする現実こそが、ループする日常すら与えられない悲劇よりマシ、という水準で評価されているようです