"「責任を取る」という生き方"

http://blog.tatsuru.com/archives/001389.php


「失敗から学ぶ」ことは「成功から学ぶ」ことよりも生存戦略上はるかに有利なことであると私は思っている。
しかし、現代日本ではこの意見に同意してくれる人は日ごとに減少している。
なぜ、人々は自分が「より生きる上で不利になる」方向に進んで向かってゆくのか。
私にはうまく理解できない。
 これは、形式疑問文だとおもうが、釣られて回答してみる。
 内田氏は、交通事故寸前になった例をあげていた。内田氏に過失はあるが、プレイヤー達は自分が「悪くない」と信じ、みな交差点に突入してきた。もし、彼らが「自分が悪いかもしれない」と疑いながら交差点に突入したとし、事故が発生したら、彼らは重過失、場合によっては殺人未遂と糾弾されるかもしれない。が、自分は正当だと信じていれば、ただの業務上の過失である。失敗から学ぶためには、失敗に至るプロセスを記述し、プレイヤーはその関与を認識し、その行動原理を矯正しなければならない。
 それは面倒だ。

 だから、生贄羊に「悪」を背負わせ、彼以外は「イノセント」な状態におこうとする。バカはイノセントだ。(中略)もイノセントだ。コドモもイノセントだ。考えたら最後、イノセントでは無くなる。

 


http://d.hatena.ne.jp/hasenka/20051125


 では実際、事故になったら、自分の責任だったと認めてる。皆が皆、オレの責任だ、オレが悪いと言い合う世界か。今回の場合で言うならば、アネハが俺が悪かった責任は全て俺にあると言って、そしたら、イーホームズがいや見逃した俺たちが悪いんだ、彼には罪はないと言って、そしたら売り主のヒューザーが標準から遥かに安い価格設定をした私たちが悪かったと涙ながらに訴え、木村建設がいやいや、ウチらが安すぎる建設工法を打ち立てたのがそもそもの原因と平謝りする。これを見た日本中が涙にくれて、国交省が誰も悪くはなかった、こうなったのは時代のせいと言ってお咎めをせず、住民は感動の余り自ら新しい住居に移って行ったのであった。
 責任を認めればいいというのではなくて、結局↑の寓話では、誰一人プロセスの欠陥に言及することはない。システムの欠陥は放置されたままだ。