禁煙ファシズム

htt://d.hatena.ne.jp/amai_oyatsu/20050927

元のエントリーよりも,このコメント欄を読んでいたら,腹が立つやら絶望的な気分になるやらで,タバコを数本吸ってしまった.

受動喫煙」だとか「周りの迷惑」云々と言っている人は,生きてる時代や場所が違っていたら,ハンセン病患者やユダヤ人に向かって「周りの迷惑を考えて生きているのか」と言っていそうだ.ハンセン病患者隔離もユダヤ人排斥も当時の「科学」を根拠にしていたのだから.

タバコについてはこれまでも書いてきたし,最近出版された「禁煙ファシズムと戦う」(isbn:4584120994)には触れられていない点も数多くあるので,これからも書くつもりだが,今日はひとつだけ.

反喫煙論者は喫煙者の「タバコ正当化」に対して,「自分の父親はタバコを吸ってたけど長生きした等の個人的エピソードを持ち出して」云々という批判をすることがある.こうした批判とこのエントリーが受け入れられることをあわせて考えれば,個人的エピソードを根拠にした反喫煙の主張は許される一方で,喫煙正当化は許されないという非対称が喫煙をめぐる議論には存在することがわかる.このような非対称が許される理由はいったい何だ?教えて欲しい.

なお,念のために言っておけば,わたし自身はこれまでにただの一度もそうした個人的エピソードを根拠に正当化していない.

http://bio-diversity.hp.infoseek.co.jp/kiben.html

☐ฺ 2:ごくまれな反例をとりあげる
☐ฺ 6:一見関係ありそうで関係ない話を始める

 歴史を考えてみたらどうだろう。煙草の煙は(愛煙家以外には)ケムい。昔は、煙いなら出ていけ、という風潮で、今は、煙いから出て行け、となった。サイエンスではなくて、政治である*1。その次は、健康被害だ。煙草の煙で健康被害を被るかどうか。これも、いろいろあった末に、発がん性ありという決着が付いた。ただ、これも、吸えば100%ガンになるわけではない。リスクが高まる、という話だ。そうこれが本題。リスクは、リスクであって、確定された未来ではない。

1.喫煙、そして間接喫煙にはリスクが存在すること。
2.リスクを回避できないと、不幸な結末を辿ること
3.リスクを回避できる場合も多いこと。
 この1,2,3は、ソース抜きの事実だと思っている。で、
>個人的エピソードを根拠にした反喫煙の主張
 は、3を根拠に1を否定する場合があり、反感を買うことは多そうである。例の文章は、2を主張していて、3は意図的に?無視している。ただ、
4.重大な結果を招く行為は、たとえ確率が低くても、(社会的に許容されなければ)行うべきではない
 という、社会通念に基づいているともいえる。
 だから、4を示すために、反喫煙家は、「重大な結果をもたらす例」をあげればいいし、喫煙家は、「重大な結果を『もたらさなかった』例」をあげるだけでなく、そのリスクを正当化するだけの論拠を挙げなければならない。そういうこと。

*1:この変形として、煙いなら、個人的に煙いと抗議しやがれ、と、個と個の関係に縮退させる戦術があり、煙いのはイヤだから法制化する、という戦術があり、後者が勝ったようだ。これも、サイエンスではなくて、政治の話。