memo.

http://dreadfulbore.fc2web.com/dreadfulbore/so1.html


 パーソナルなホームページの問題はすべてここに尽きると思う。つまり

 世間で話し相手のいない人間が

 自分の性癖を暴露し賛同者を募る


 コミュニケーションを取り戻す。日常生活を取り戻す。情報化、マニュアル化、類型化された生活と言葉を「僕の生活」と「僕の言葉」にする。そこからじゃないと、何も始まらないような気がするからだ。

 個人ホームページに可能性はあるのか?限定条件付で「ある」と答えたい。それが「意思」を持つ場合に、ごく少数の人間にとってその意思が「救い」になるかもしれないのだ。多くの人にとっての救いじゃない。多くの人にとっての救いなら、それはもうファシズムか宗教だ。僕と、僕の半径1メートル以内にいる人。僕が直接顔を合わせて、話が出来る、その範囲の中でのみ、救いであればいい。

 えっと、小説は、個人の社会化されていない部分を描く話、という文章を読んだ覚えがある。そんな話かな。


http://d.hatena.ne.jp/pekeq/20050916/p1


ネット新時代に対応するための7原則

皆さんの手元にコピーがあるよ
1.アナロジーで考えてはいけない
2.「ムーアの法則」を信じ、「おっちょこちょい」であれ
3.Only the Paranoid Survive(アンディ・グローブを思いだそう)
4.「時間の使い方の優先順位」を変えないと何も変わらない
5.新しい現象に対し、「古い感覚を総動員した理論武装」で戦うな
6.若い人に教わることを忌避するな
7.Never Too Late

超面白い。face to faceで見たかったな。超ポジティブ。

http://www.president.co.jp/pre/special/aiai/077.html


――そもそも企業はフリーターを「安くて柔軟な」労働力としてありがたがりこそすれ、問題だなどとは考えていない。一方で、フリーターでも素晴らしい能力を発揮してくれる人がいる、そういう人たちはとてもありがたい存在ですと語る企業の採用担当者は、家で自分の子供たちに「割に合わないフリーターなどになるな」と言っている。また、フリーターの増加で年金財源や税収が減るといったことを問題視し、フリーター対策に躍起になっている役人の子供がフリーターだったりする――このエピソードが意味するところは、親の世代でまかり通っているダブルスタンダード(フリーターは自らすすんで損をしてくれるありがたい存在であると同時に迷惑なフリーライダーである)であり、親子間に存在する価値観の断絶だ。
 ダブスタ良くない。


現在、「自己責任」――「リスクを受け入れよ」――のスローガンとともに若者に向けられるメッセージは、明らかに矛盾したダブルバインドのメッセージである。それは一方で自分の将来や老後を自分で備えよ」(=「国や企業に頼るな)である。しかし同時に発せられるのは「あらゆる長期計画(=長期的安定性)を放棄せよ」である。長期的な見通しが不可能となるなかで、自分で長期的な見通しを立てよ。労働市場が流動化し、非正規不安定雇用層が増大するなかで、社会保障の自己責任化を貫徹せよ(たとえば401k)。ネオリベラル言説がこの不可能なメッセージで若者に期待するのは、不断に自己を励まし、不確実な未来を臨機応変に積極的に切り開く人間であろう。

http://d.hatena.ne.jp/komametommy/20041126#p3


かなり微妙なオタク的トリビアが80%で、あとの残りでオサレやらお勉強やらの知識を無理矢理に詰め込んで構成されている私ですらも、学校でなんとか素性隠して生きられるのよ?*3それくらい日常で必要とされる知識量って少ないんです、本当に。
日常で必要とされる知識量って少ない話。

、そういう理由で私自身が現実世界の女の子の(実は男の子も似たような構造を持ってるらしい……)「通過儀礼」や「学校カースト制」、そしてそれが絶対的な指標として君臨する「世界」というやつに嫌気がさしてたから、ネット特有のお約束ごと(=現実の人間関係とはかけ離れている約束事)とかも普通に受け入れられたのだろうなぁと。そうじゃなかったら普通にぱどとかハピタン*6とかにも住めただろうし。いや、住んでたらちょっと不味い気もするのですけど。
 はてなに「住んでいる」と、はてなの外に世界があることを忘れそうになる。どっかのブログサービスに突入して、文章に絵文字が多用されているのをみてぶっ飛んだ。しかし、みんな文章がうまいな。自分よりは上手い。