割り算はゼロで定義されない。到達目標に努力は適さない。

 ある目標を定める時に、それを、いくつかの到達目標と、行動目標に分解する。
 トートロジーだけど、実行可能、努力可能なのが行動目標で、そうでないのが到達目標になる。


 国語の成績を伸ばす、という究極目標に対して、
 漢字を憶える、という到達目標が考えられ、
 漢字を10回ずつ書く、という行動目標が考えられる。


 努力をすれば行動目標は達成できるけど、それで到達目標を達成できるかどうかは不明。究極目標なんかサラミである。


 ここで、「本当の努力(頑張り)は、勉強の仕方を考え直し、頭の使い方を変えるもので、国語の成績が上がらないのは、努力(頑張り)が足りないからだ」というのは簡単で楽しいけど、あまり益のある話とも思えない。たとえば、漢字の用法、文中での使われ方がよくわかっていないのではないか、という再検討があれば、


 「天声人語を筆写する(笑)」「小説を読む」という行動目標などが考えられる。それが妥当な分量であれば、行動目標を達成できないことについて「努力不足」を非難してもいいかもしれないけど、行動目標を達成したからといって、到達目標を達成できるわけではないことは、留保しておいた方がいいかもと思う。



 というわけで、合理的な目標設定をして、行動目標を達成してもなおかつ到達目標を達成できないときには、目標を再設定したほうがいいカナ、いいカナ、という話と、到達目標、究極目標を設定しても、行動目標を何一つとして設定せず、実行していなければ、究極目標は達成できることは稀、という話は、矛盾しないと思う


 のだった。